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iPhone写真、アナログ写真、随想、詩作、 覚書き など。

思考の整理ー投影しつつ探るものとそれが行き着くところ

✴︎覚え書き

 

先日から、初の展覧会の覚書きとしていくつか思いつくままの記事とした。
蛇足と思われることもあったが、書き記したことで考えるきっかけとなった。ひとつを書き留めておく。
 
 
前回の記事を書き、コメントをもらったお陰で気付いたことがあり、それが前々回に書いた展覧会テーマに結びついた。
 
読む人の少なさ、ご新規様0を想定してリンクを貼るだけで済ます。(お断り:もし初訪問して、読み進んでくださろうとしている奇特な方がいらしたらごめんなさい。本当に整理なので、他者向けに面白いものではないです。)

 前々回の記事:

354x5andwords.hatenablog.com

 

 で、唐突だが本題に入る。
しからば、草や葉っぱや木や切り株や枯れ枝のポートレートに、なぜ夢中になるのか。
やはり、会場で言われたように多分それらは私の頭の中を表している。もっと言い切れば、自画像かも知れない。
あまたの存在の中から、特定の個体に感じ取る気配や「ここよ、見て見て」と聞こえてくる声。実は、自分に気づいて欲しい、見て欲しい、という私自身の要求を彼らに投影し、そのこだまを聞いているのかも知れない。
 
そして、それを受けとめ、見つめることで、「在り方を見て欲しい」と、「在り方をそのまま認めて、愛でる」という双方の役回りを果たし、自己の願望を充足させる。そう、自作自演だ。言葉や行動に託して人に訴える代わりに。
自然に逃げている、と自分で思っていたのは、それかも知れない。
 
しかし、だ。「逃げる」という表現はどうか。
どこかに背を向けて別の方向へ向かう。あるいは飛び越して先を求める。これを逃げると言うのは乱暴すぎないか。
欲しいものを探る時、より豊かに満ち、「必ずある」という確信を持って探ることのできる場所に向かうことは、選択であって逃避ではない。
私が欲しいのは「在ること」に対する真理、いや、真理が大袈裟であれば、真実である。
在ると思っていたものが実はなかった。それが真実なら、それでも良い。それは自分の存在についての問いでもあるし、周りの全てのものに対する問いでもある。
 
 
もちろん、その探求を人の営みや在り方の中に求めることはできる。
たとえば、19世紀のパリの市井を撮り続けたアジェが好きだ。
彼もまた、「在りかた」を、「在ること」における真実を、パリの襞の中に求め続けていたような気がする。
私自身も、自然以外にも街の景色の中の様々な「在ったもの」の痕跡に惹かれて気楽なスナップを撮ったりもする。人為に自然が重なって作られた、朽ちていくもの、錆びていくものも好きだ。
 
しかし、今作品の中で探りたいものにとって人は余分なのだ。成り立ちにおいて人の意図の入らないものの動き、ダイナミクス、それが見たい。その中に人間の理(ことわり)も含まれていると思うから。
 
誤解を招きそうなので添えておくと、これは、深山幽谷、人と一切の関わりのない環境を相手にすることを意味しない。
文明生活に棲む私がそれらの存在に踏み入れば、畏怖や崇拝に打たれて写真どころではなく終わる懸念があるし、しからば中に入り込もうとそこに居を構えて腰を据えたなら、それは結局は天然100%ではなくなる。さらに言えば、結局、ものは観察され、被写体は撮られることで変容する。私がやっているのは所詮文明活動の一端である。
私が見たいものは、ただ偶然が必然としてそこに在る、自然の存在だ。スケールの規模は問題ではない。小さなスケールの中にも神秘は大きさを変えずに宿っている。身近な雑草でも、放ったらかしにされた誰かの庭の木でも感謝である。これはもちろん今の時点での思いである。
 

もし私が彼らに自己を投影していたとしても、その「ため」に作品を作っているのではないし、それに拘るつもりはない。願いや思いとしては、そういう「私」のフィルターを介してではあるが、ある道端に、茂みに、森に存在した姿や光景の光との調和、季節が動き天気が動き水分が風が動き、周囲から受けて与えてのダイナミックな関係で育まれ現れたある小さな瞬間を、誇張なく誰かに見てもらいたい、ということか。