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無駄多きある日の午後に、1粒の小豆に見合う「徳」を思う

出かけない日には毎日のようにアルビュメンプリントの試作をしている。

起きるとまず空模様をみる。プリントできそうなら1枚だけ感光紙を作る。

今まで感光液に紙を浸していた過程を、刷毛での塗布に切り替えるための模索をしているのだが、もう1月以上、ここで停滞していて一枚も作品にならない。

卵白を塗るのは今までも刷毛だったので問題はない。その次の硝酸銀がうまく載らないのだ。

 

もとの情報が少ない上に、紙による個性が大きいので、切れ切れの情報から類推し、思いつく工夫をし、うまくいかなくても3回(すなわち3日)は繰り返してみる。根本的なことが変わらないとと思うのだが、原因がわからない。

もしかして、適した刷毛に変えれば簡単に解決するのかもしれない。

日本に戻った時、入手するべき品には目星を付けてある。

手漉き雁皮紙も硝酸銀もいたずらに消えていく。

いつ戻れるのか。それを得るまでどう凌ぐかだ。

 

塗って乾かしを3回繰り返すので1枚の感光紙が出来上がるのに3時間ほど、その後太陽光で1時間強露光する。

そして本来ならプリントの洗浄プロセスが続くのだが、ここで失敗だったことに気づくと、洗浄に充てていた時間が空くことになる。

 

 

そんな昨日の午後、手付かずだった家の整理をしていて、引き出しに眠っていた薄い本を開いた。

前田行貴という人の「釈尊の食法とウポワズ」という断食についての本で、随分前に人から頂いたものである。

 

断食には昔から興味はある。だが食い意地が張っており、また空腹にとても弱いこともあってやったことはない。要するに意思、というよりも意識が弱いのだ。

この本は断食のノウハウを詳しく書いたものではなく、むしろ断食の持つ色んな側面を歴史を俯瞰しながらどう理解するかに焦点があたっていて面白い。

 

衝撃を受けた一文があった。

釈迦の食法である「五観文」の2つ目、

「二つには己の徳業の全欠をはかって供に応ず」

(自分自身に、この食事を頂く徳があるのか、無いのか、それを考慮して頂くこと)、

である。

 

生命を頂くことに感謝しながら頂く、これは当たり前と思っていたが、自分自身にその生命を頂くだけの「徳」があるのかを問う発想は無かった。

生きるために必要だから頂きます、その程度であった。

 

本を読んだ後で、茹でた小豆を食べた。

小豆を目の前にすると、この小豆が実るまでのイメージが脳内に湧き起こる。

小豆を見つめて自問する。

私にこの1粒1粒を頂く「徳」はあるのか?

分からない。

自分の「徳」など考えたこともなかった。

分からないけど頂く。

明快な答えが無いままに感じたのは、ただ畏れ多さであった。

 

 

晩御飯の時にも自問した。

複数の素材の一つ一つの生育をイメージすると、全くもって自分にはトゥーマッチな生命を頂いているという気持ちになる。ヤリキレナイ。

 

だが、本当に、その通りなのだ。

そのような思いが、本心としてしっかり全身を染めることができれば、不食になれたりするのだろうか。

 

そして食べること以外にも自らの徳を思う=徳から自らを省みることが世界観を変えてくれそうな気がしている。