映画が奇遇に化粧、仮面、顔。
とある映画が目的で映画館のウェブサイトを訪ねたところ、好きな監督の終わりかけの上映特集を見つけて変更、遠征して観に行った。久々に2本続けて観て今首がおかしい。
最初の作品はフランスの山あいの尼僧院を扱ったものだった。
当然、登場人物は皆尼装姿、だるま型の白布からぽこりと顔だけ出して動き回っている。
人の顔を覚える能力の低い私には、最初、誰が誰だか見分けがつかない。
主人公だけは割と早い段階で見分けられるようになった。彼女の顔は端正な上に内面の気高さを反映するような感じがあり、大変美しかった。
私は殆どの人を顔ではなく髪型や体型服装などで記憶することを、また思い知らされた。髪型が変わると大抵分からなくなるし、髪型が同じでもその顔を覚えるのに人の何倍もの時間がかかる。
小学6年の授業でやったポートボールが大好きだったので、中学に入るとすぐバスケ部に入部した。本物のゴールを使えるのが楽しくて毎日の朝練と夕練に休まず参加した。
そんな5月半ばのある日の昼休み、先輩の一人に校舎裏に呼び出された。
行くと2年の先輩全員が集合していており、半円を描くように取り囲まれた。
少しの沈黙のあと、一人の先輩が強張った面持ちで口べを切った。
「xxさん、私らについてどう思っとん?」
さっぱり合点がいかなかったが、私が校内ですれ違う時に挨拶をしないことが問題視されていたのだった。そのことを聞かされて「まだ顔を覚えていませんでした。練習着から制服に変わると分からなくて。」と答えたが想定外だったのだろう、変な空気が流れたが「早よ、覚えよ」と言われて、その後は関係が円満になった。
ちょうどひと月ほど前に勅使河原宏監督の「他人の顔」を観に行った。
原作は安部公房である。工場の事故での大火傷で顔を失った男が、精巧な皮膚のようなマスクを手に入れて徐々にパーソナリティーが変わっていく様子を描いた作品だ。小説はずいぶん昔に読んでいたが筋はあまり覚えていなかった。左半面が美少女、右半面が醜女の少女とお兄さん、原作にいたっけか。
まあ、いい。映画はやはり面白く、そして顔を巡る台詞が興味深かった。
女が化粧をする訳を、「顔を見せるに値しないような詰まらない存在であることを示す為だ」と説明する主人公の妻。「貴方は次第に仮面に支配されていくんだ」と囁く、マスクを作った悪魔的な精神科医、うん、どちらも一理あるが逆でもある。
その10日ばかり前、日本から帰りの便の中でエリザベステーラー主演の映画「クレオパトラ」を観た。古代エジプトの超絶目張りメイク、かつ巨大建造物を駆使しての壮麗な自己演出。あれも一種の化粧であろう。
化粧と仮面とパーソナリティという古典的テーマについてはここに書く積りはないが、堂々巡って、私が人の顔を覚えないことに少し結びついたことがあった。
一つには、顔を見ているようで見ているのは単に目や顔筋の動きなのではないかということだった。だから印象は残っているし、人の顔を覚える能力に殊に秀でた相方も驚く速さで、その顔に似ているものをまったくの脈絡ない箇所に見つける。しかしその本人に出くわしても気付かないし、誰だか思い出せないのである。もちろん、生活においては大きなディスアドバンテージである。
環境、衣装、マスク、化粧、そして顔筋に張り付いた面の皮。
それらに影響を受けないことは不可能に近いだろうけど、剥いて剥いて剥き切ったところにはきっと動じない核があると思う。それを信じて生きて行ければと思う。ただ見た目も汚らしくならないようには気をつけたい。
取り留めがなく尻切れとんぼとなったが、ちょっと書いただけで幾分すっきりした。腕が疲れたのでここで終わる。