赤い男の謎解き
昔から、何度も推敲した原稿や手紙やメールを手放した瞬間にふと間違いに気づいたり、思いもよらない解を得ることがある。「ならば出す前に慎重になれば」と思うのだが、手放してから、なのである。
ブログアップにもやや似たところがある。
前記事をアップした後、ふと赤い男の正体は古代ギリシャの黒絵、赤絵かと思った。
前日に焼き物を見たし、昔ギリシャの黒絵や赤絵の壺の類いが特に気に入っていたことがあったので色々と合点がゆく。
「赤い男」は恐らく壺に描かれた誰かではなく、壺そのものだったのだと思う。
夢なので時代や地理に一貫性はない。
赤い男が生身の男として釣りをしているのは、壺が使用されていた古代である。
海に落ち(=地上から姿を消し)、巨大な亀(=長い時間や不動状態)に羽交い締めにされた。
一晩(=おそらく数千年)明けて再び地上に引き上げられ(=発掘)、専門家によってパーツは慎重に並べられる。隔離された施設(武装宗教団のアジト)で手術(=復元作業)が行われる。
当然だが、後世の復元者は当時の人々(=家族)の了承や見解は得ようもない。
「色を塗り忘れた透明な肘から手首」。きっと、復元された土器や陶器の色地の欠損部だろう。
そして、「ご飯、胃袋」=生きた機能だろう。
自己流の素っ気ない解釈だが、
人々は基本的に善意に満ち、苦しさ、悪意、理不尽さが無かったこともなんだか気になった。
ちなみに、状態の良い古い壺や絵やなんやかんやを生で見るのは私にとっては一種の怖いもの見たさである。近寄ると強い恐ろしさと喜びに同時に打たれる。そこに宿る作り手の五感と指の感触と物の見方が空中に漂い、異様さにゾッとする。が、見てしまう。
だから頭では残すことの意義を思い、感覚は、壊れゆくものは壊れるべきと叫ぶ。
矛盾を巡って考えることは多い。